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旅の百八:「紀州の建築(その1) 和歌山県」 ◆写真をクリックすると、
拡大写真でご覧頂けます。
今回は、紀州和歌山を30年くらい前に訪ねた時の事を思い出しながら、
ご紹介したいと思います。



まずは、紀三井寺。正式には紀三井山金剛宝寺護国院と言います。
奈良時代の宝亀元年(770)に唐僧の為光が、日本各地を巡っている時に
一筋の光を発見。そこで、見つけた金色に輝く千手観音を自ら彫った
観音像の胎内に納め、一宇のお堂を造って安置したのが始まりとされて
います。また、紀三井寺という名前は紀州にある三つの霊泉、つまり
「清浄水」・「楊柳水」・「吉祥水」の湧水がある寺という意味だと言われて
います。
建物は楼門が三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺で、室町時代の永正6年
(1509)の建立です。軒廻りは二軒繁垂木に組物は三手先、腰組も
三手先とした和様で、欄間彫刻などに桃山時代の様式を残しているのは、度々修理をしてきた表れだと思います。次に多宝塔は、三間多宝塔、
本瓦葺で、室町時代の文安6年(1449)の建立です。鐘楼は桁行三間、
梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺で、天正16年(1588)の建立です。



 次に、紀州東照宮。関西の日光とも言われている紀州東照宮は、
江戸初期の元和7年(1621)に、紀州藩初代藩主徳川頼宣公が南海道の
総鎮護として、父・徳川家康公を東照大権現として祀り、創建しました。
その後、自らも南龍大神として祀られています。108段の石段を登ると楼門がそびえ建っています。三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺で、二軒繁垂木に
組物は三手先、腰組も三手先で彩色を施したとした、和様の華やかな
建物です。社殿は権現造の拝殿・石の間・本殿で構成され、拝殿は
入母屋造に正面千鳥破風を付け、屋根は桧皮葺です。建築様式は和様で
黒漆、朱漆を塗り、極彩色を施し、錺金具を付けた豪華絢爛な建物です。



 三番目は、和歌浦天満宮。菅原道真公が大宰府に左遷される際に、風波を避けるため和歌浦に立ち寄り、二首の歌を詠みました。その後、道真公に
同行した橘直幹が大宰府からの帰路、ここに神殿を建て道真公の神霊を
祀ったのが始まりとされています。現在の社殿は、豊臣秀吉の兵火で
焼失した後、慶長9年(1604)〜同11年にかけて再建されたものです。
楼門は慶長10年に建てられた、一間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺で、
軒廻りは二軒扇垂木に三手先組物を詰組とした禅宗様式の建物です。
本殿は慶長10年に建てられた、桁行五間、梁間二間、
入母屋造正面千鳥破風付、桧皮葺で、蟇股などの彫刻が極彩色で彩られた桃山建築です。



 最後に、長保寺。海南市下津町にある天台宗の寺院で、平安時代の
長保2年(1000)に一条天皇の勅願で性空上人が創建しました。
年号から長保寺と号され、寛仁元年(1017)には七堂伽藍と子院十二坊が
存在していたと伝えられています。その後、鎌倉時代後期に現在地に移して
伽藍が整えられました。現存する大門、本堂、多宝塔は鎌倉後期から
室町時代にかけて建てられた建物で、国宝に指定されています。
寛文6年(1666)当地を訪れた初代藩主徳川頼宣は長保寺を紀州徳川家の菩提寺と定め、歴代藩主が眠っています。
大門は南北町時代の嘉慶2年(1388:北朝年号)に建てられた
三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺で、軒廻りは二軒繁垂木に三手先組物、
腰組も三手先組物を用いた和様の堂々とした迫力のある建物です。
本堂は鎌倉時代末期の延慶4年(1311)の建立。桁行五間、梁間五間、
向拝一間、入母屋造、本瓦葺。軒廻りは二軒繁垂木、組物は出三斗。
和様の落ち着いた優美さが見事です。本堂の右手にある多宝塔は、
南北町時代の正平12年(1357)の建立。三間多宝塔、本瓦葺で、
下重と上重のバランスが良く、腰のくびれ具合が見事な美しい塔です。



こうして、かなり昔に訪ねた時の写真を見ていると、若かった当時が
思い起こされ、懐かしさに浸ってしまいます。昨年の台風12号による災害も
気になります。またいつか訪ねられたら良いのですが。




























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