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旅の六十五:「日光」  ◆写真をクリックすると、
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 残暑お見舞い申し上げます。
毎日、暑い日が続きますが如何お過ごしでしょう?この時期は、地区の盆踊りなど夏の行事が立て込んでいて、更新が遅れてしまいました。

 前回、ブルーノ・タウトを紹介しました。彼が、桂離宮など日本の建築を絶賛したことは、その中で紹介しましたが、実は彼は、桂離宮とその後訪れた日光東照宮を対比して、日光東照宮のほうは厳しく批判しています。今回はその日光東照宮と二寺社を紹介したいと思います。

 ブルーノ・タウトは来日直後に桂離宮を訪れ、その約二週間後、中禅寺湖や華厳の滝など日光の大自然を満喫。フランク・ロイド・ライト(旧帝国ホテルの設計者)も宿泊した日光の金谷ホテルに宿泊し、その折にぶらりと東照宮に
立ち寄ったようです。そこで目にしたのが、あの煌びやかな建築群。杉木立の中、突然現れた東照宮を目の当たりにした彼は、「装飾品のように美しい眩いばかりのきらびやかさ」である。しかし、「すべてが威圧的で少しも親しみが
ない」と批判し、「建築の堕落だ!しかもその極致である」とまで言ったよう
です。ブルーノ・タウトがこう評した日光とその建築は、いったいどのようなものでしょう?

 一般的に日光は日光東照宮のことを言っていますが、正確には二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)・東照宮・輪王寺の二社一寺から成っています。
東照宮は、皆さんもご存知のように徳川家康公を御祭神におまつりした神社
です。家康公は元和2年(1616)4月17日に駿府城で死去し、遺骸は直ちに
久能山に神葬され社殿を建立しましたが、公の遺命により一年後、現在地の日光に建てられた社殿に移され、東照社として鎮座しました。
元和3年3月に創建された社殿は、20年後の遷宮に向けて寛永11年(1634)
大造営に着手した際に取り壊され、現存する社殿のほとんどが寛永13年(1636)に造替されたものです。その際、奥社の御廟塔(三間四方の多宝塔)・唐門・拝殿は徳川家とゆかりのある、群馬県太田市の世良田に移され、
世良田東照宮として創建されました。その後は造替されることもなく、建物は
現在まで維持されています。正保2年(1645)には朝廷から宮号が授与され
東照宮と改称し、明治の神仏分離により、それまで神仏習合だったのが、
東照宮・二荒山神社と輪王寺の二社一寺に分立しました。

 それでは、ここで東照宮の建物の紹介をしたいと思います。と言っても
東照宮には五十数棟の建物があり、とても全部は紹介できませんので、
メインとなる建物にとどめて書きます。
本社は本殿・石の間・拝殿からなり、柱間九間X九間の拝殿と五間X五間の
本殿の間を、低い板張床の石の間でつないでいます。屋根は本殿、拝殿とも入母屋造でその間の石の間に両流れ造の屋根を掛けています。拝殿の正面には柱間三間の向拝を設け、正面に唐破風を付け、さらにその上部に千鳥
破風を重ねた豪華な造りとなっています(このような造りを権現造と言い
ます)。元和の創建時にも同形式の本社があったようです。
次に陽明門。こちらも寛永の造替時に建てられました。三間一戸楼門で中央の間が通路で、左右の柱間には正面に随身象、背面にこま犬を一対ずつ
安置しています。二階は周囲に組物で持ち出した廻縁をめぐらし、屋根は
入母屋造で各面に軒唐破風を付けています。
唐門は本社の正面にあり、本社を囲む透塀(すきべい)が取り付いています(現在、唐門・透塀は修理工事中)。東照宮の唐門は一般的な唐門と違い、
特殊な技法により造られています。屋根は四方の軒を唐破風で造っており、
それに伴い軸部も四方に虹梁を掛けています。そして、いずれの建物も
彫刻が見事に彫られ、漆塗、彩色、飾り金具の装飾が一層華やかさを増しています。

 次に紹介するのは輪王寺。奈良時代の天平神護2年(766)、勝道上人に
よって日光山が開かれ、四本龍寺が建てられたのが始まりとされています。
その翌年神護景雲元年(767)には、二荒山(日光山)権現も祀られています。その後、平安時代には満願寺と改められ、弘法大師や慈覚大師なども訪れ、三仏堂・常行堂・法華堂を創建したとされています。その後も、関東の豪族の支援を受け、隆盛したようです。そして、先程の東照宮が設けられ、承応2年(1653)には、3代将軍家光の霊廟、大猷院霊廟が設けられました。東照宮とは異なり仏式で造られた霊廟は神仏分離で、現在、輪王寺の所管となって
います。明暦元年(1655)御水尾天皇の下賜により寺号が輪王寺となりましたが、明治政府によって称号を没収され、満願寺に戻りました。しかし、明治15年栃木県の取り計らいにより、再び輪王寺を称するのが許可されたようです。
輪王寺も建物は多く50棟近くあり、大猷院霊廟だけでも、その半数位あり
ます。少し建物の紹介をします。
まず、本堂(三仏堂)。7間X4間に裳腰付の大きな建物で屋根は入母屋造。
江戸時代の正保4年(1647)に家光公によって建て替えられました(現在、
裳腰の屋根の修理工事中)。
常行堂は五間X六間に向拝一間の宝形造。元和5年(1619)に建て替えられてます。法華堂は常行堂より一回り小さく三間X四間に向拝一間の宝形造。
やはり元和5年に建て替えられてます。これらの建物は弁柄漆で塗られているものの、本来の仏堂建築で何となく落ち着きます。
大猷院霊廟は、家光は死後も家康公の近くで守護するとの遺命により、
承応元年(1652)大造営に着手、翌、承応2年に完成しています。2代秀忠の
台徳院廟を模して、仏堂の様式で建てられたため、本殿も本格的な仏殿形式です。本殿・相の間・拝殿からなり、三間X三間に裳腰付の本殿と七間X三間の拝殿の間に渡り廊下状の相の間(東照宮は石の間)を設けています。
屋根は本殿が入母屋造の裳腰付、拝殿は入母屋造で、三間の向拝に軒唐
破風を付け、その上部に千鳥破風を重ねています。相の間は両流れ造です。東照宮ほど豪華絢爛ではないですが、重厚感漂う建物です。

 最後に二荒山神社。沿革については輪王寺で触れましたように、神護景雲元年、勝道上人によって創建され、山岳信仰による修行場と、神仏習合の
霊場として栄えたようです。その後は輪王寺と同様に、東照宮が創建され、
幕府から崇敬を受けました。
二荒山神社にも三十棟近く建物があります。と言っても御神領は3400ヘクタールもあり、いろは坂や華厳の滝も境内ですから、この神社はその中の奥宮とかいろんな別宮を含んでいます。
本殿は元和5年、秀忠によって建て替えられたもので、五間X五間に三間の
向拝を付け、屋根は入母屋造で向拝に軒唐破風を付け、その上部に千鳥
破風を重ねた、東照宮本社や大猷院霊廟本殿の拝殿と同形式となって
います。その他にも拝殿や大国殿などたくさんの建物がありますが、これらは一般的な神社と大きくは変わりません。

 日光と言うと、やはり思い浮かべてしまうのは、陽明門や眠り猫など東照宮に関連するものだと思います。それだけ素晴らしい技術がそこにあり、400年経つ今でも延々とその技術を伝承し維持しているからでしょう。
ブルーノ・タウトが「威圧的」だと批判したこれらは、確かに「威圧的な」権力によって生まれたかもしれません。ナチスの圧政から逃れてきた彼が、
独裁的な権力による建築に拒否感を抱いたのは当然でしょう。しかし、権力によって造られたにしても、こんなにも「眩いばかり」に素晴らしいものを具現化
した技術は本物です。いわゆる「わび・さび」や「陰影礼賛」的な意匠だけが、日本建築の真髄ではないと思います。私は何度も日光を訪れ、そのたびに
ため息が出るほど、その緻密な造形と、当時の宮大工たちの技に魅せられてしまいます。これだけの建物を維持して行くには、たくさんの職人さんが毎日
毎日少しづつ修復を続けているからです。私もここで漆塗りや彩色、飾り金具の研修を受けたことがありますが、それはそれは大変な作業です。価値観による見方の違いこそあれ、これらはこれからも日本の宝(いや、世界遺産ですから、世界の宝ですね)。いつまでも残していかなければなりません。
























































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