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旅の八十四:「身延山久遠寺(その2) 身延町」  ◆写真をクリックすると、
拡大写真でご覧頂けます。
前回に引き続き、身延山久遠寺の続編です。
前回は、久遠寺の中心的な伽藍を構成する建物を紹介しましたが、今回は、その周辺に点在する建物を紹介いたします。


前回、紹介した三門を潜らずに、そのまま西へ進むと、日蓮聖人が身延山に草庵を構えた周辺です。このあたりは西谷(にしだに)と呼ばれ、付近に
常唱殿があります。常唱殿は、祖廟拝礼のための施設として建てられたもので、その先に、聖人が草庵を構えた御草庵跡があります。石造の玉垣に
囲まれた御草庵跡の先には、石造八角塔の日蓮聖人の御遺骨を納められた御廟塔があり、お参りするための拝殿は昭和17年に身延山の杉材を
切り出して建てられました。御草庵跡より少し下った所に法界堂があります。草庵を模して、後世に伝えようと造られた室町期頃の建物です。写真でも解るように茅葺型屋根の小さなお堂で、鎌倉時代の身延山久遠寺草創期の
聖人の暮らしぶりが偲ばれます。

法界堂:室町時代頃に、久遠寺創建当初の十間四面のお堂の材料を使って建てられたと伝えられる、寄棟造茅葺型銅板葺きの身延山最古の建物です。

西谷を川沿いに菩提梯と並行して上ると、身延山の大駐車場があり、
久遠寺の伽藍へと繋がります。
大駐車場の奥には、ロープウエーがあります。これは身延山頂へ繋がり、
奥の院へといざないます。しかし、ロープウエーの無い時代は、当然、歩いて登らなければならなかったわけで、私も昔どおり、本堂の裏側にある参道を、奥の院のある山頂へと登りながら、点在する建物を訪ねました。
参道を少し登ると、本地堂があります。正側面は一間で、詰組を載せた楼造。屋根は宝形造銅板葺きの珍しい形の建物でした。本地堂から少し行くと
左側に石段があったので登ってみると、上の山八幡神社と書かれた看板が
あり、覗くと、本殿は覆屋の中にありました。

上の山八幡神社本殿:棟札から桃山時代の慶長3年(1598)に再建された
建物です。元は波木井実長の鎮守で、波木井の地にあり、後に片隈沢・
祈祷堂の地を経て現在地に移築されたようです。正面二間側面二間、
入母屋造、柿葺、向拝一間軒唐破風造で、向拝柱・身舎正面柱・扉などを
漆塗りの上に金箔を施しています。

上の山八幡神社から、さらに参道を東北方向に上ると、十如坊があり、
その西側に鬼子母神堂があります。

鬼子母神堂:日朝上人が伽藍を西谷から現在地に移した時に、法界堂同様
創建時のお堂の柱を使って、明応3年(1494)に建立したと伝えられる建物
です。桁行三間梁間三間、入母屋造鉄板葺、向拝一間付で、入母屋屋根の
妻飾りに木連格子を用いた、なかなか雰囲気のある良い建物です。

次に、参道をまた少し上ると、左手に妻入りの細長い建物が現れます。
正面一間側面四間、向拝一間、入母屋造桟瓦葺の莚師堂です。このあたりは日蓮聖人が錦ヶ森と命名した森で、標高500mくらいあります。たしか、
本堂があるあたりが、標高400mくらいですから、100mくらい登ったことに
なります。そして、また少し上ると、今度は右側に丈六堂が見えます。

丈六堂:寛永二十年(1643)にお万の方様が願主で、久遠寺の伽藍に釈迦堂として建立。その後、寛文四年(1664)に現在地に移築した建物で、正側面三間、宝形造のお堂です。建物内には一丈六尺(5m58cm)もある釈迦如来立像が安置されており、これにちなんで丈六堂と呼んでいます。

丈六堂からしばらく上ると、大光坊という宿坊があります。ここには日蓮聖人
御作と伝わる大黒天を祀る大黒堂と、三光天子を祀る三光堂、そして、
天明元年(1781)に日蓮聖人五百遠忌に際し、天下泰平を祈願して建て
られた相輪塔があります。相輪塔は他に日光輪王寺と比叡山延暦寺にもあります。

大黒堂:寛文二年(1662)に建立したとされる三間堂。桁行三間梁間三間(現在は二間増築してあり五間)、入母屋造鉄板瓦棒葺、向拝一間付の形の
整った良い建物です。

三光堂:寛文五年(1665)に甲府藩主の徳川綱重が子孫繁栄の祈願所
として建立されました。三光天子(日天子・月天子・明星天子)が祀られた、
桁行三間梁間三間、入母屋造桟瓦葺、向拝一間付の建物です。

この大光坊が奥の院までのほぼ中間です。ここまでは、自動車も入って来れるのですが、ここから先は登山道のような参道を登ります。さあ頑張って
登るぞ!杉の大木などが生い茂る森の中や、雑木林の中から時折のぞく
富士山を垣間見ながらしばらく登ると、水屋がありました。法明坊のお水屋
です。ここは日蓮聖人が山頂に登るごとに、六老僧の一人の日朗上人が
岩清水を汲んでささげたので日朗上人の井戸を言われています。休憩所
らしき建物もあり、参拝者の多かった時代には、この参道を大勢の信者が
南無妙法蓮華経と唱えながら登っていた様子が偲ばれます。また、杉の森の中を登ってしばらく行くと東照宮があります。覆屋に囲われていますが、傷みがひどく今にも倒れそうです。

上の山東照宮:寛永13年(1636)にお万の方様が、徳川家康が亡くなられた法要を久遠寺で営まれた折りに造営した建物です。正側面一間、流造、柿葺、向拝一間軒唐破風造で、組物は詰組とし、彫刻は精巧に彫られています。
ちなみに日光東照宮の造替と同じ年に建てられてます。

さて、ここまで来ると奥の院までは後わずかです。頑張って登りつめ、到着したところが身延山山頂(標高1153m)でもある奥の院。奥の院は思親閣といいます。日蓮聖人が身延山で暮らしてる間、常にここまで登られ、故郷房州の
方角を拝し、御両親を慕い、恩師に思いを馳せられたことから、思親閣と
名付けられたようです。

思親閣:日蓮聖人入滅の翌年、日朗上人が亡き師の篤い孝心を後世に
伝えるため一宇を建立したのが起源とされ、その後の寛永8年(1631)、
前田利常の母寿福院お千世の方の寄進により祖師堂が完成し、大正2年
(1913)改修されているようです。

前回と今回の2回に分けて、身延山内の粗方の建物を駆け足で紹介して
きましたが、この他にも、塔頭や宿坊などの沢山の建物があります。
また、七面山にもいくつかの建物がありますが、七面山には、まだ登った
ことがないので、いずれまた、訪ねたいと思います。皆様も身延山の
しだれ桜の花見にでも訪れた際に、ちょっとした登山気分で訪ねてみては
如何でしょう。





























































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