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旅の二十三:「旧官営富岡製糸場」 ◆写真をクリックすると、
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今回は、明治5年(1872年)、新政府が日本を近代国家へと発展させるべく、総力を結集して創設された、日本で最初の官営(国営)工場「富岡製糸場」について書きたいと思います。

「旧富岡製糸場」を世界遺産に!といった運動が展開されているのをご存知でしょうか?

近代化産業の礎となったこの工場は、国家の存亡を掛けた一大プロジェクトとしてスタートし、フランス人技師のブリューナ氏の指揮監督の元、建てられました。

この工場は、敷地面積約57000u。工場建物の延べ面積約24000u。といった壮大さです。製糸場は操業開始から約20年後の明治26年(1893年)に民間に払い下げられましたが、その創業当時の工場は、130年経った今も整然と、しかもしっかりと建ちならんでいます。

今回私は、この歴史的に大変貴重な産業遺産の保存のための調査団の一員として、富岡を訪れました。

私が担当した建物は、昭和15年に建てられた寄宿舎2棟です。
創建当初の寄宿舎は、敷地の北側に2棟が並列した中廊下式の2階建てで、200以上の部屋がありました。その後、大正期には現在の場所である敷地の南側に移し、700人も収容する施設となっていたようです。現在残っている建物は、長さ54m・奥行き7mの木造2階建てが2棟です。部屋数は15畳間が各階8室の合計32室で、最大収容人員は約400人です。

工場が休止されたのは昭和62年(1987)。それ以降、20年近く使われていないこの寄宿舎は、さすがに傷みがひどく、屋根や床が抜け落ちていました。

そんな建物を恐る恐る調べていくと、時代の生活環境や労働環境のの変化に伴い、部屋の構成が変わっていく様子が見えてきて、47年間使われていた歴史が少しずつ紐解かれていきます。たとえば座敷に入るかのような広い出入り口が、女工さんたちのプライバシーを守るためか、個室への出入り口となり、押入れも造り付けの洋服入れに。
木製の窓もアルミサッシに付け替えられていました。
そして、この寮で最後に暮らした女性たちの、当時の姿を感じさせるのが、そこらに落ちている名札やサンダル。また、「自分だけの世界」の押入れの中には、ピンクレディーや中島みゆきといった往年の(?)アイドルのポスターが貼られていたり、あるいは実家や姉妹のものと思える東北地方の電話番号のメモ。ついこの間まで、多くの女性がここに住んでいたかのように取り残されたそれらからは、そこはかとない青春の寂しさが漂ってくるようです。

ここで最後に暮らしていた彼女達はおそらく私と同年代。いまは何処でどんな暮らしをしているんでしょうね。そして、ここでの暮らしをどんな思いで振り返っているんでしょうか?

明治の壮大な工場の調査とはおもむきがチョット異なりましたが、これはこれで昭和という時代の生活感のにじみ出た、哀愁のある調査となりました。





























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