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旅の百二十九:
「小石川後楽園 丸屋 組立・完成/東京都文京区」
◆写真をクリックすると、拡大写真でご覧頂けます。
 前回に引き続き、小石川後楽園。丸屋の修復工事です。
丸屋は建物を解体後、引き続き土間の三和土叩きも鋤取り
ました。前回(旅の百二十六)の報告からここまでが解体
工事で、これからが組立工事です。
九八屋同様に、懸案だった柱の栗皮付丸太材も入手
出来たので、組立の部材加工を行い、建て方。小屋組は
杉丸太の束に、これまた丸太の隅木だけだったので、
追っ掛けすぐに屋根工事の茅葺きに入りました。茅葺き下地の真竹の屋中竹をまず隅木に縄で括り付け、垂木竹を配し、
小舞竹を取付けます。これらは全て荒縄で結び、その上に茅を載せて葺いていきます。九八屋と違うのは小舞竹です。
九八屋は小舞竹の代わりに葦簀を入れていましたが、
一般的には小舞竹を使います。吹抜けなどで天井が無く
茅葺きを見せる場合は化粧として小舞竹の代わりに葦簀を
敷きます。茅を葺き込み、固定する押し鉾竹を入れ、
押し鉾竹と垂木竹を縄で縛り付けて葺き上げ、
棟まで葺き終わると、今度は刈込みです。茅の厚さを
約30cm程度に刈り込んで行き、軒付まで綺麗に刈り揃え
られました。ちなみに茅材は静岡県御殿場産。要するに
富士山の裾野で育った茅です。
 丸屋は屋根が出来ればほぼ完成。最後に土間の三和土
叩きを叩き直して工事は完了いたしました。

 九八屋・丸屋の他にも後楽園では得仁堂の工事が同時
進行で進められていました。こちらは私の担当ではなかった
のですが、参考までにご紹介いたします。
 得仁堂は水戸藩二代藩主徳川光圀が創建したもので、
18歳の時に「伯夷・叔斎」の物語を読んで非常に感銘を受けた光圀は、「仁を行い得た人たち」を祀る得仁堂を建てて、
泰伯・伯夷・叔斎の三像を安置し参詣したと言われています。
 関東大震災と戦災でほとんどの建物が失われる中、唯一
残った創建時の建物です。
 得仁堂は三間堂の桁行三間・梁間三間、宝形造、
正面軒唐破風付、銅板葺の禅宗様式の建物です。
 修復工事は屋根葺替え部分修理で、屋根の銅板葺きを
解体撤去し、新に銅板葺きとし、宝珠を載せて、板壁等の
部分解体修理です。
 屋根の銅板葺きを解体すると、中には元の柿葺きが残されていました。これは予想していなかったのですが、
今回の工事では元の銅板葺きにする方針でしたので、
柿に復原するのではなく、柿は以前の修理と同様に保存し、
柿葺きの上に屋根下地を組み銅板葺きとし、現状失われていた宝珠を復旧しました。
 次に、壁。縦板壁を外すと、なんと中には筋違が!こちらも
後の改修時に補強されたものと考えられています。今回の
工事では傷んでいる部材を取替えて筋違は同じ形で復旧
いたしました。
 このように小石川後楽園では平成25年度に3棟の文化財の修復工事を行い、無事完工することができました。2月には
例の大雪もあり、樹木の倒木など、庭園としてのダメージは
物凄く大きかったようですが、建物はパトロールの強化などが功を奏して、なんとか被害を免れる事ができ、工程も遅れる
事もなく完成し業務は終了いたしました。
 桜はそろそろ散りますが、これからもいろんな花が咲き出し
ますので、皆様も近くにお出かけの際に立ち寄って頂ければ
幸いです。













































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