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旅の百三十四:「保福寺 山門・鐘楼 文化財指定」
◆写真をクリックすると、拡大写真でご覧頂けます。
12月25日、保福寺山門・鐘楼が上野原市文化財に指定され、指定書交付式が保福寺にて行われました。
保福寺山門・鐘楼は予てより上野原市指定文化財に推薦
され、審査が行われていましたが、約4年間の審査を経て
平成27年12月22日、上野原市有形文化財(建造物)に
指定されました。関係者の皆様、おめでとうございます。

それでは建物の紹介をします。
まずは山門。保福寺境内の南に位置し、屋根に軒唐破風を
付けた唐門形式の四脚門で、総欅造りに銅瓦が葺かれて
います。そのいたる所に施された虹梁や木鼻・蟇股・軒支輪・
笈形・懸魚などの彫刻の技術は一流のものと考えられます。
また、組物も四脚門では最上級の出組を詰組で備え、
妻飾には二重虹梁蟇股に笈形付大瓶束を載せるなど、
江戸建築の豪華さが良く表現されています。
各寸法は、桁行3.32m、梁間3.32m。高さは軒高が3.85m、棟高が7.26m。軒出は1.49mです。
保福寺は、天正10年(1582)武田信玄の重臣で上野原城主加藤丹後守影忠が創建しましたが、宝暦元年(1751)に
本堂や庫裏などほとんどの建物を焼失。その後、宝暦5年に
本堂・庫裏が再建され、山門は114年後の慶応元年
(1865)に再建されたことが棟札により解かります。
棟札には、慶応元年八月十六日、大工棟梁信州佐久郡
小諸生の小山正作が五十八歳の時に建てた、と書かれて
あります。
また、山門に安寧山と書かれている扁額は、芝高輪泉岳寺の高僧、勅特賜大清撫国禅師永平承天老師の揮毫によるもの
です。老師は宝暦元年の保福寺焼失後に本堂を再建した
第十世祝全和尚の本師にあたり、本懐を遂げた赤穂浪士を
泉岳寺の門内に招き入れて接待したことで知られています。

次に鐘楼。江戸末期に山門と共に再建された建物で、平面は正面三間側面二間、屋根は入母屋造鉄板葺で妻飾に
木連格子を設け、軒廻は二軒繁垂木を三手先組物で支え、
袴腰が付いています。袴腰の北側に戸を設け、階段で2階へと通じ、腰組四手先組物の縁を設けていますが、高欄は付いていません。三手先組物や腰組などの豪華な造りは江戸時代の特徴でもある華やかな遺構を良く残しており、軒反の強い
禅宗様式の伸びやかで整った美しい姿を見せています。
各寸法は、平面の桁行中央間が14枝で1.27m、両端間が
12枝で1.10m。梁間二間はそれぞれ14枝で1.27m。
高さは軒高が5.32m、棟高が8.52m。軒出は1.60mです。
建築年代は、先述の通り、山門と同じ慶応元年(1865)に
再建されたことが鐘楼再建古図により解ります。

このように素晴らしい山門と鐘楼が保福寺にはあります。
この事を上野原市民の皆さんをはじめ、多くの方々に
知って頂き、参拝に訪ねて頂けましたら幸いです。









































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