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旅の百三十二:「東照宮」 ◆写真をクリックすると、
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今年は徳川家康没400年と言うことで、各地で徳川家康に関する記念事業が行われています。皆さんも何処かで特別展などをご覧になられた方も多いものと思われます。そんなことから今回は徳川家康をお祀りした東照宮を
ご紹介したいと思います。

東照宮と言えば皆さんは当然、日光東照宮と久能山東照宮を思い浮かべる
ことと思います。しかし、実は全国には500社を超える東照宮が建てられ、
現在でも100社以上が現存しています。この建築旅日記でも旅の六十五で「日光東照宮」、旅の七十三で「仙波東照宮」、旅の八十四で「上ノ山東照宮」、旅の百八で「紀州東照宮」をご紹介しています。そこで、これまで紹介していない中でも特に、家康と係わりの深い久能山東照宮と世良多東照宮を
今回はご紹介したいと思います。

それでは、まず、静岡県静岡市駿河区に所在する久能山東照宮。
元和2年(1616)4月17日徳川家康が駿府城で死去。その『遺骸は久能山に
神葬し、その後、日光に社殿を造営し神葬せよ』との遺命から、家康の遺骸はまず久能山に葬られ、翌元和3年(1617)に2代将軍秀忠によって東照社の
社殿が造営され東照大権現として祀られました。それが現在の久能山東照宮です。その久能山は武田信玄が駿府へ進出した際に築城した久能城で、
武田家滅亡と共に家康の領土となった久能城を、家康は地形的な要害から
駿府城の本丸的存在として観ていたようです。
建物の紹介をします。本殿・石の間・拝殿は権現造りの代表的な建物で、
拝殿は正面五間側面二間、入母屋造、正面千鳥破風。石の間は
正面三間側面二間、両下造。本殿は正面三間側面三間、入母屋造。
銅瓦葺き。
楼門は三間一戸楼門で三手先組物。腰組も三手先の入母屋造。銅瓦葺き。元和3年の建立と伝えられていますが、主要社殿よりやや遅れた寛永4年(1627)に建てられたのではないかとの説もあります。
鼓楼は正面三間側面二間、入母屋造、銅瓦葺、石積袴腰付鼓楼です。
元和4年(1618)の建立で、元々鐘楼だったのですが、明治の神仏分離令の際、鐘楼は仏教施設であることから、梵鐘を太鼓に付替え鼓楼とし、
難を逃れたようです。
神厩は神馬を入れる厩舎で、正面二間側面三間、妻入、切妻造、本瓦葺の
建物で元和4年(1618)の建立。中には左甚五郎が彫刻したとされる家康公の愛馬が納められています。
神庫は奉納品を納める校倉式の倉庫で、正面五間側面三間、入母屋造、
銅瓦葺の建物で元和4年(1618)に建立。
拝殿の隣りに位置する日枝神社は元々は薬師如来を安置していた本地堂でしたが、神仏分離令によって明治3年、山中にあった山王社の御神体を移し、日枝神社としたようです。したがって、建物は仏堂形式の正面三間側面三間、入母屋造、銅瓦葺の建物で元和3年(1617)の建立。
以上が現在の久能山東照宮の主だった建物です。明治6年までは3代将軍
徳川家光が建てた五重塔が存在していたようですが、残念ながら、明治の
廃仏毀釈で取り壊されてしまいました。また、現在はほとんどの建物が銅瓦葺ですが、これらは寛永年間に葺きに替えられたもので、造営された元和3年は
桧皮葺だったようです。

次に世良多東照宮。群馬県太田市世良多は、家康公の先祖の世良多(得川)義季や、その父、新田義重が本拠とした上野国新田荘です。徳川家ゆかりの地として、3代将軍徳川家光の命により、世良多山長楽寺の境内に寛永21年(1644)東照宮が創建されました。この時に建てられた拝殿、唐門、本殿は、
寛永13年(1636)に行われた21年神忌の造替で建て替えられた元和3年(1617)建造の日光東照宮の古社殿を、寛永19年(1642)世良多に移築した
ものです。
拝殿は正面五間側面三間、入母屋造、正面背面に軒唐破風を付けています。唐門は四脚平唐門で銅瓦葺。本殿は一間社流造の銅瓦葺。いずれも日光
東照宮造営時に急いで建てられたためか、それとも伊勢神宮などと同じように式年遷宮も考えられていたようですから、そのためなのかよく解りませんが、いずれにしても久能山と比較して簡素な造りです。そして、21年後、日光は
あのように絢爛豪華な社殿に造替し、それ以来建て替えられる事も
ありません。つまり、ただ一度の遷宮による払下げを受けて出来たのが
世良多東照宮だということです。いわば由緒正しき日光東照宮の前身と
言うわけですが、そういうことが知られていないからか、訪れる方もあまり
いませんので、こういった史実を知ったうえで訪ねて頂けましたら幸いです。






























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